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悪魔と思想の自由

先の記事は、悪魔がいる前提の記事だった。

なぜ、元首相がそうしたのか、恐れ多くも自分ならどうするかを考えてみた。

もし、100%の悪魔がいないとしたらどうだろう。

人には悪魔的なところ、例えば妬み、恨み、悲しませるなど人を不幸ならしめる負の気持ちと、天使的なところがある:愛、憐憫など人を幸せにする正の気持ち。

100%の悪魔がいないとしたら、目的のためにすべての人に利用されるし利用もするのも正しいと思えるようになってきた。(生存のための経済的論理)

視点を変えたら日本の保守系の政治家が、多彩なのものを受け入れる、懐の広い人たちであることがわかってきた。

もし、応援者(ある宗教団体)からイベントの参加をお願いされたらどうするだろうか。Win-Win、相互利益の関係を維持するため、参加するだろう。あなたの宗教は人を不幸にするから、参加しないとは言わないだろう。もちろん、都合が悪いからとか言って断るが、助けてもらい続けて何も恩返ししないと悪いため、1回は参加するだろう。多くの人々のためになることをしょうとする政治家の悲しさがあると思われる。

 

さて、

この世の中で怖いのは、自分が何を考え、何を思い、何をするのも縛られること。

思想の自由、言論の自由、行動の自由がないことである。

逆に日本国憲法はそれを許している。なんてありがたい国だろうか。

(もちろん、人の安全安心を脅かす自由は制限されていい。。どこまで制限するかは議論の余地がある)

 

ただ、日本はあまりにも、完全さを求めすぎ、人の足を引っ張る社会になってしまった気がする。自由のない社会になってきた。

言論の自由としながら、たとえば「差別」的な言葉をすると叩かれる。過去の過ちをたたかれる(昔した反省、更生が許されない)。 

差別は人を悲しくするので叩かれてもよいが。反省した人をたたくのはいかがなものか。

1年前の五輪の前に多くの人々が、差別的な言論、行動で締め出された。

聖人君子でないと、公的な役職のリーダになってはいけないように自由さがしばられている。

聖人君子は多くを語らずとはよく言ったもので、口が回りすぎてすべってしまうのを避けるためである。

世の中、すべての人が正しく過ちを犯さなくなったらどうなるか。そんな完全なことになったらおぞましい。良くしようとも思わないし、努力もしないし、反省もしない。進化がないし、もしそういう国なら憲法もいらない。

 

民主主義といいながら、民衆の隠れた倫理観、正義感などの物差しで測られる怖い世の中になってきた。

正しくない思想の自由、言論の自由、行動の自由はないということだ。

民衆監視でマスコミに叩かれ、SNSでたたかれ。。

今後の日本はどうなるのだろうか。

国民を目に見えない牢屋に入れ、正しくあれ、間違うなと、新しいことをするなと自由のない国にする。

知恵のある人物にリードして頂けないと、完全さが求められすぎ、生きにくい、自由のない怖い国になる。

聖人君主が必ずしも世の中をリードしているわけではないため、もし彼が過ちを犯したら隠さないといけない。ごめんなさいが言えない。ごめんなさいを言って退場できる人は素晴らしいが、しがみつく人が多い。しがみつかないと生きていけない。しがみつきたければ、過ちを隠すしかない(権力を行使するしかない)のである。

視点を変えれば日本の裏が見えてきた。

過ちを認めない社会、国。それを隠す社会、国。

大丈夫か日本。

知恵ある人にリーダになってほしい。